鳥羽城跡 他 @三重県鳥羽市

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はい、こんにちは。

ぶらぶらです。

2018年11月25(日)~26日(月)に行きました、三重県鳥羽市への旅行記事の第18回目です。

看板

今回の旅行の12回目の回で、

九鬼嘉隆は自分の先祖だ」

と、何の根拠もなく言い張る先輩がいることはお話しました。

で、その先輩がですね、見つけたんですわ。

国道42号線を走っているときに、遠くの石垣に掛かる

「九鬼水軍の城跡 城山公園」

と書かれた看板を。

「やっぱり、導かれてるな」

と、独り言のようにいいます。

「よし、あそこに行くぞ」

どうやら、決まったようです。

やたら決意が固い感じ。

実は以前にも、この先輩とこの辺りの旅行に来たことがあり、その時にも同じように看板を見つけました。

「あそこに行きたい」

と言う先輩に、更に先輩である人が、

「あそこ行きたいんか? じゃあ、別のとこに行こか

と、あっさり却下。

※ウチの先輩、こんな人ばっか。

そんなことがありましたから、「今日こそは」という気持ちになったのかもしれません。

導かれてる割には、看板を見るまで気付きもしないのはおかしいと思いますが、まぁ、触れないようにします。



鳥羽城跡

では、行ってみますか。

どこから入るのが正しい入り方なのか分かりませんが、我々は駐車場の関係から、鳥羽市役所の辺りから入って行きました。

鳥羽城跡案内図

戦国時代末期、九鬼水軍率いる九鬼嘉隆織田信長のもとで、数々の戦功を挙げ、後に鳥羽城を築きました。

鳥羽城は大手水門を海にむけた「海城」で全国的に珍しい城です。

明治時代に城は取壊されましたが、三ノ丸広場からの城山公園周辺は眺めも良く、随所にみられる石垣から、当時の城跡の面影を感じることが出来ます。

①本丸跡から見た鳥羽湾

本丸からは鳥羽湾が一望できます。奥に見える島が答志島で、嘉隆の胴塚、首塚があります

②本丸西側の石垣

城の中心部で最も良好に石垣が残存しています。

③鳥羽城三ノ丸広場

三の丸跡は、城の玄関口として整備されました。

現在の近鉄の線路と国道部分に二ノ丸御殿があったと考えられます。

④家老屋敷跡石垣

城内の家老屋敷があった場所です。周囲には野面積みで現存する数少ない鳥羽城の石垣のひとつ。

⑤城山公園

鳥羽城跡の北側に位置し、見晴らしがよく鳥羽湾が一望できます。桜の名所でもあり春には満開の桜をお楽しみいただけます。

⑥大山祇神社(おおやまずみじんじゃ)

九鬼嘉隆が鳥羽城築城の石垣を築く時に邪魔をしたという伝説の三鬼神が祀られていた場所に、明治40年、横町、藤之郷、中之郷、錦町の村社として建てられました。今も4月の春祭は、雌雄の獅子と天狗が町内の民家を回り、祓い清めます。

⑦相橋(あいはし)

武家屋敷から鳥羽城に上がる武士が使った橋で、城の陸側の玄関口でした。古来は志摩国と伊勢国の国境でした。

⑧明慶川(みようけいがわ)

鳥羽城が築城されるまで、伊勢・志摩両国の国境であった川。鳥羽城の堀としての機能も有し、相橋の城山側に江戸期からの石垣が残ります。

⑨唐人門跡(とうじんもんあと)

明治10年(1877)に明治天皇が、御宿泊所となった常安寺に向かうために上陸された所で、江戸末期から明治にかけては船行遊女らが沖の親船に乗り出した場所でもありました。

坂を登り始めてすぐにあったのが、こちら。

「鳥羽市立 鳥羽幼稚園」

営業はしていない様子。

上の説明の④家老屋敷跡石垣の上にあります。

いい雰囲気ですね。

昔は賑やかだったんでしょうが、もはや過去のこと。

さらば、古き良き日本。

というか、石垣の写真撮ってませんわ。




次に行きますか。

登った先は・・・城山公園ですね。

見える景色。

土産物屋とかレストランとか。

道路は国道42号線

見えている船は、鳥羽~伊良湖55分「伊勢湾フェリー」

恐らく「鳥羽丸」

・総トン数:2,399トン
・旅客定員:500人
 <詳細>
  特別室  100人
  普通客室 322人
  甲板   78人
・搭載台数
 バスのみ  14台
 乗用車のみ 52台
 バイク   15台
・主機:1,471KW×2基(2,942KW)
伊勢湾をつなぐ愛知県田原市(伊良湖岬) – 三重県鳥羽市間は国道259号と重複する海上区間であり、伊勢湾フェリーが国道の航路代わりとなっている
wikiより
フェリーの左下にあるのは、「ミキモト真珠島」にある「御木本幸吉記念館」

小学校の修学旅行で行きましたねぇ。

懐かしい。

更に先へ。

これが、②本丸西側の石垣っぽいですね。

左下の、線路との間のスペースが③鳥羽城三ノ丸広場

案内標識が船の形。

本丸跡へ向かいます。

む!

記事書きながら、たまたま見つけた「海島遊民くらぶ」

ここ面白そう。

大体、帰った後で見つけるんですよね。

話は戻りまして、

よく分かりませんが、一応って感じで。

本丸跡・天守跡・本丸御殿跡に到着です。

「鳥羽城跡 登城記念」城御朱印があることを、後で知りました。鳥羽駅近鉄改札前「鳥羽市観光案内所」で入手できるようです。

鳥羽城 本丸跡(三重県史跡)

 この場所は鳥羽城の本丸跡で、天守や本丸御殿が建っていました。延宝9(1681)年の記録によると、天守は3層で、大きさは5間×6間、高さは10間5尺、天守の下には土蔵があったと記されています。本丸御殿は、275坪であったとされています。

明治時代に建物は取り壊しとなり、現在は往時を偲ぶ建物は残っていませんが、周囲には野面積みの石垣の一部が今も残っています。この場所は平成21年まで旧鳥羽小学校の運動場として活用されていました。

城の築城時期については、九鬼嘉隆が文禄3(1594)年に竣工したとされていますが、詳しいことは不明でした。そのため、平成23年(2011)年に初めて発掘調査が行われ、運動場跡の下から築城主である九鬼氏の時代とみられる16世紀末頃の石垣や雨落ち溝、土蔵や本丸御殿の一部と考えられる遺構が確認されました。現在は平坦となっていますが、天守台のあった場所が最も高く、本丸内でも高低差があったことも判明しました。

明治初期の開発によって城の海側の斜面は削平を受けており、急斜面となっていますが本来の城は現在の鳥羽水族館のところまで広がっていました。ここからは、嘉隆が自害した答志島をはじめ鳥羽湾が展望でき、九鬼水軍の城にふさわしい「海城」の面影を偲ぶことが出来ます。

鳥羽市教育委員会

鳥羽城本丸跡の発掘調査

鳥羽城本丸跡については、長らく詳細が不明でしたが、平成23~25年に初めて発掘調査が行われました。その結果、天守台は明治時代以降に削平されており、遺構は残っていませんでしたが、天守台想定地周辺からは、石垣や排水溝などが出土しました。また、本丸御殿に伴う大井戸も確認されるなど、大きな成果を得ました。

あるのは石垣看板くらいです。

これが「本丸御殿に伴う大井戸」跡



旧鳥羽小学校

城跡を見終え、反対側へ降りて行くと、こんな建物がありました。

学校っぽい感じです。

造りが面白いというか、楽しい。

ちょっと覗いてみますか。

思い切り学校してますね。

うーむ。

トリップしてしまいそう。

校舎の窓にある掲示から「旧鳥羽小学校」と判明。

というか、最初に見た「鳥羽城跡案内図」にも載っていましたし、道案内にもありました。

そんなもん、すぐ忘れますよね。

更に降りて行くと、校門が。

またトリップしそう(笑)

横にはトーテムポールが。

こんなの、あったあった。

今どきもあったりするんですかね?

鳥羽城跡と鳥羽市立鳥羽小学校

 鳥羽は、中世には「泊(とまり)」もしくは「泊場(とまりば)」と呼ばれ、志摩地域の海上交通の重要な地点でした。

鳥羽小学校は、一八七三(明治六年)に創立され、その後一九二九年(昭和四年)に現在の校舎が建設されました。当時は県下でも珍しい鉄筋コンクリート造りの小学校として話題となりました。

校舎の後ろの運動場周辺には鳥羽城の建物が建っていた場所であり、この辺一帯は鳥羽城跡として史跡に指定されています。

鳥羽城は、戦国末期に九鬼水軍の将と言われた九鬼嘉隆により海に向かって建てられ「鳥羽の浮城(うきしろ)」と呼ばれ、また、魚類を保護するために、海側が黒色、山側が白色となっていたので「錦(二色)城」とも伝えられ、鳥羽小学校の校歌にも「波静かなる錦浦」と歌われています。

昭和四〇年十二月九日

三重県指定(史跡)

鳥羽市教育委員会

鳥羽市立鳥羽小学校

何かの石碑。

画質を落としたこの画像では判読不明。

元の画像なら読めそうだけど、大変そうなのでパスで。

何かの実がなっていました。



まとめ

てことで、見て参りました。

どーですかね。

時間があるなら行ってもいいかもしれないけど、

「鳥羽に行くならここ!」

ってことは、ないかな。

お城好きなら、積極的に行くかもしれませんが。

個人的には、盛り上がらないけど、地味に良かった」って感じですかね。

行って良かったと思います。

今回は先輩の妄想が原因でここに来た訳ですが、きっかけは何でも、機会があればどこにでも行った方がいいなと思いましたね。

そんな感じで、また次回。



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