朝熊山 金剛證寺 @三重県伊勢市

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はい、こんにちは。

ぶらぶらです。

2018年11月25(日)~26日(月)に行きました、三重県鳥羽市への旅行記事の第12回目です。

前回、孝志丸 かきっこ」焼き牡蠣を食べ終え、まだ時間がありましたので、どこかへ行こうとなりました。

「朝熊山 金剛證寺」「 朝熊山頂展望台」がなかなか良さそうです。

ここに行ってみることにしますか。

※今回の記事は「朝熊山 金剛證寺」のみです。

ただ、ここに車で行くには、有料道路の「伊勢志摩スカイライン」を通らないといけないようです。

※徒歩やバスでも行けます。

料金は普通自動車で1250円ですね。

我々は鳥羽側ゲートから入って、「朝熊山 金剛證寺」「 朝熊山頂展望台」へ行き、同じ鳥羽側ゲートへ戻ります。

この場合、料金は往復で倍の2500円掛かるのかと気になりますが、そうではなく、1250円で往復できるようです。

料金の支払いは入口の料金所(有人)になります。



朝熊山 金剛證寺

気持ちのいい「伊勢志摩スカイライン」を通り、一旦「 朝熊山頂展望台」への入口を通り過ぎ、朝熊山 金剛證寺(公式HP)に到着しました。

駐車場は無料です。

では、参りますか。

階段を登り、「仁王門」をくぐります。

朝熊山

朝熊山は標高555メートル (m) の北峰と約540 mの南峰(経ヶ峯)のほかにいくつかの峰がある。伊勢志摩国立公園の中に位置し、日本百景に選定されている。紀伊半島から太平洋に突き出た志摩半島の最高峰で、山頂付近は初日の出の名所である。朝熊山は伊勢志摩を代表する霊山として知られる。

wikiより

伊勢神宮の鬼門を守る名刹

昔より伊勢神宮の鬼門を守る寺として、神宮の奥之院ともいわれ「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と伊勢音頭の俗謡にも唄われ、参宮する人々は当寺に参詣するのが常でありました。
当山の草創は古く欽明天皇の頃、暁台上人によって開かれ、平安時代には弘法大師(空海)によって堂宇が建立され、密教修業の一大道場として隆盛を極めました。その後応永年間(1394~1427)に鎌倉建長寺開山大覚禅師の法孫である仏地禅師(東岳文昱)が法燈の衰微を嘆き再興して以来、禅寺に改められ、現在は臨済宗南禅寺派の特例地で、御本尊の福威智満虚空蔵大菩薩は、日本三大虚空蔵菩薩の第一位として広大無辺な福徳・威徳・智徳の三徳を有する仏様であります。御本尊は秘仏で、伊勢神宮のご遷宮の翌年に、二十年に一度のご開帳を厳修いたします。

伊勢志摩スカイラインHPより

金剛證寺

金剛證寺(こんごうしょうじ)は、三重県伊勢市朝熊町岳にある臨済宗南禅寺派の寺院である。山号は勝峰山院号は兜率院と称する。本尊は虚空蔵菩薩である。朝熊山(あさまやま)南峰(経ヶ峯)東腹にあり、「朝熊山」と呼ばれる場合がある

1894年(明治27年)に、近くの経ヶ峯から複数の平安時代末期の1173年(承安3年)の銘のある経筒が発見されたほか、1960年(昭和35年)の伊勢湾台風でも経塚が発見され、この平安末期には埋経信仰があったことが確認された。このときの出土品の経筒などは1963年(昭和38年)に国宝(考古資料)に指定され、経塚は1966年(昭和41年)に朝熊山経塚群として国の史跡に指定された。「線刻阿弥陀三尊来迎鏡像」などの「朝熊山経ヶ峯経塚出土品」は、当寺境内にある宝物館で見ることができる

朝熊山付近では江戸期以降、宗派を問わず葬儀ののちに朝熊山に登り、金剛證寺奥の院に塔婆を立て供養する「岳参り」「岳詣(たけもうで)」などと呼ばれる風習がある

また寛永7年(1630年)に秋田氏の祖で常陸国宍戸藩主秋田実季が山麓に蟄居させられている。豊臣秀吉の勘気を受けた尾藤知宣が潜伏したり、関ヶ原の戦いに際して福原長堯がこの地で自害したなど、アジール的な空間でもあった。

wikiより

こういう予備知識があると、より一層楽しめるのですが、行き当たりばったりですから。

「仁王門」をくぐるとある、「連れ間の池」

この橋は、「連珠橋」

「連間の池」弘法大師が掘ったと伝えられているとか。

そういえば、「目の薬師 瀬之堂 大澤寺」にあった「智恵ノ柳」弘法大師お手植えでしたね。

まったく、弘法大師は池掘ったり木を植えたりで、忙しくて仕方ないですね。

「与楽院」

厄除け六地蔵尊(重軽地蔵尊)

まず、お地蔵様を持ち上げて静かに置きます。

次に左へ三回まわしながら、ご真言を三回、「オン カァカァカ ビサンマエイ ソワ カ」を唱えます。

記念の後、再度お地蔵様を持ち上げて下さい。

最初より軽く感じましたら、お願い事をお聞きとどけて下さいました事になります。

肝心の厄除け六地蔵尊(重軽地蔵尊)の写真がないんだな。

蓮華庚申

蓮の花と葉の形で三猿の状態「見ざる、言わざる、聞かざる」を表している。中国より伝来した庚申信仰は、日本の様々な信仰と結びついて江戸時代に最も盛んになり、庚申を守れば七福が生ずると信じられた。




本堂に向かいます。

とても高い杉(かな?)。

葉っぱを見れば分かるのですが、現地で確認していませんでした。

残念ながら本堂は撮影禁止でしたので画像はありません。

御朱印のみ。



経塚

さらに進みます。

左に見えるのは「明星堂」ですが、寄らず。

「経ヶ峰 八大龍王 参詣道 入口」

むっちゃ行きたいけど、行かないんだな。

すごく勿体ない。

朝熊山経塚(きょうづか)

所在 朝熊山経ヶ峰(標高五四〇㍍)

経塚のあらまし

かつてこの辺りは杉や桧の巨木がうっ蒼として茂り、昼なお暗いほどでありました。

明治二十七年、老樹の根元から承安(じょうあん・しょうあん)三年(一一七三)銘の陶製経筒(きょうづつ)が出土し、経塚の存在が知られるようになりました。

また、昭和三十四年九月、伊勢湾台風が吹き荒れ、多くの樹木がなぎ倒されました。その荒れ跡から埋経信仰の遺品が見つかりました。

このことから昭和三十七年(一九六二)・同三十八年両年の発掘調査は計四十日に及びました。

調査はこの頂上部から東斜面を東西十六㍍、南北二十四㍍の範囲で、計四十余基の経塚を発掘しました。

主な出土品は、陶製経筒・同経甕(きょうがめ)・土師質(はじしつ)経筒・金銅製(こんどうせい)経筒などであります。福納品として経巻残片、円形・方形・八稜(ハチリョウ)形なとの銅製水滴などで、その一部は国宝に指定されました。

在銘のものは保元(ほうげん・ほげん)元年(一一五六)より文治(ぶんじ)二年(一一八六)まで三十年間にわたっています。

日本の経塚に関する膨大で有力な資料が、提供された意義は大きいとされています。

芭蕉碑

神垣や

 おもひもかけず

    涅槃像

    はせを

「大東亜戦 殉國英霊」



奥の院

「極楽門」

ここから「奥の院」へ向かいます。

案内図。

こちらは一番地

「極楽門」の手前左にありますね。

「極楽門」をくぐって行きますよ。

塀のように立ち並ぶ卒塔婆

こういう景色は見たことがないですね。

おや?

跪いて拝む人がいますよ。

ウチの先輩やないですか。

拝んでいたのは、九鬼嘉隆(くき よしたか)公の五輪塔」でした。

この先輩は、

特に根拠はないけど、九鬼嘉隆が自分の先祖だと言い張っている人

です。

今回、ここにはたまたま来たのですが、

「やっぱり、導かれてるんやな」

と、一人納得しています。

他の二人からは、

「病んでるな」

と言われてしまいます。

「奥の院」へ着きました。

何となく、俗世から隔離されたような雰囲気。

横には卒塔婆の価格表が。

一気に俗世に引き戻されます。

卒塔婆の供養林

霊峰朝熊岳に卒塔婆を建て、亡き人の追善菩提を弔うのは死者の霊魂は全く別の世界に行ってしまうわけではなく現実の山の中に死者の霊が集まる「他界」がある、という捉え方(山中他界観)が、古代より、私たちに引き継がれているからです。

受付は「撮影禁止」の雰囲気が漂っていたので、御朱印の画像のみです。

休憩所がありますね。

お酒、おでん、カップコーヒー、おみくじなどが買えるようです。

今はやっていないのかな?

よく分からないですが、一応載せてみた画像。



まとめ

とても良かったです。

特に、卒塔婆の立ち並ぶ景色が初体験できました。

行き当たりばったりでしたし、時間もあまりなかったので見ていないところが沢山あります。

全部回ったとしたら、もっともっと楽しめたと思います。

それが残念でした。

そんな感じで、また次回。



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